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    まさしく、それは房一の癖だつた。何か用がとぎれた時、この廻転椅子に腰を下すや否や、肥満して幅の広い体躯の房一には窮屈さうに見えたが、案外しつくりと云ふに云はれぬ掛心持かけごこちがあると見えて、そのまゝ彼は今云つたやうな姿勢とぼんやりした考へに落ちこむのである。それは何かはまりのいゝところがあるらしかつた。真新しかつた時の天鵞絨びろうどの輝きこそなくなつたが、それはまだ円々としたふくらみを持ち、毛並みの上にかすかにできた掛癖の痕は、それが布地のいたみを感じさせるよりも、もうかなり自分の身体に合つてくれたといふ馴染深なじみぶかさを感じさせた。だが、それは又同時に、河原町に帰つて以来の彼の生活を、その短くもあれば永くもあるやうな、まとまりのあるやうなないやうな一年あまりの月日を、多少とも何気ない風に示しているとも云へた。

    徳次はすつかり感心したとも、又その反対ともとれる云ひ方だつた。

    房一は下駄をつゝかけて外にとび出していた。何気なく腕時計をすかして見た。七時半だつた。まだそんな時間か、とびつくりして考へたのをおぼえている。すぐ傍を、人が駆け抜けていた。房一も走り出した。どういふものか、さつきうす暗がりで見たぼんやりした小さい白い時計の文字盤が頭の中で見えていた。走り出した方は真暗らな畑中の路だつた。今、房一の右にも左にも誰とも判らない人が一杯で、腕や肩がぶつかつた。小谷も練吉もいつしよに駆け出して来た筈だつたが、どこにいるか判らなかつた。

    房一はその「ごとき」といふ箇所にわざと力を入れながら、つゞいて、今夜の席に招かれたことを謝し、甚だ不本意ではあるが止むを得ぬ所用があるので途中から退席させてもらひたい、と述べた。

    「痛むか?」

    「そんなこと位は造作もない。おれにとつては小指の先の芸当だ」

    昔はめったになかったように聞いているが、温泉場に近年流行するのは心中沙汰である。とりわけて、東京近傍の温泉場は交通便利の関係から、ここに二人の死場所を択ぶのが多くなった。旅館の迷惑はいうに及ばず、警察もその取締りに苦心しているようであるが、容易にそれを予防し得ないらしい。

    「今日はほんの御挨拶に上つたので、いづれ又ゆつくり――」

    「さうです。――どうかなさつたかね」

    徳次も笑顔になつていた。だが、それは甚だ不器用なもので、絶えず紅らんだり力んだりしながら、眩しげに房一を見たかと思ふと、又当惑したやうな顔になるのであつた。

    房一も彼等の仲間であつた。だが、彼はその不器用な竿の操り方と、首の短い、肩幅のむやみと広い、上半身にくらべて不釣合に短い両脚や、ぐつと突き出している下腹部(それは服を着た時に堂々とした押出しに見えたけれども)、そんな特長のある身体つきが、彼らしい不様ぶざまな身ごしらへのためによけい目立つて、例のおきまりの大きな麦藁帽子や白シャツにもかゝはらず、遠くからでもすぐそれと見分がついた。彼はいかにも新参者らしく真新しい手拭を首にかけて、それを顎の下で変な形に結んでいた。彼にも、他の者に共通な、あの幸福さうな仔細しさいらしい表情が見られた。少年の頃恐しく敏捷だつたにもかゝはらず、近年とみに肥満して来たので、動作が何だか不自由さうであつた。彼は水中の石苔に滑つて何度か転んだ。彼は以前の水遊びを、その頃の巧みですばやい身ごなしを忘れ果てたかのやうであつた。

    盛子は笑ふまいとしながら、こらへかねて真紅になり、そこにうつ伏しになつてしまつた。道平も釣りこまれて笑つた。だが、それは心持ひきつゝた痕跡の中に押しこまれたみたいになつた。彼が髯を落したのはそんなに悪戯気でやつたのではなかつたので、盛子の大げさな可笑しがりやうがいくらか気にさはつたのだ。で、彼の顔はすぐに老人らしい克明な生真面目さをとりもどし、房一の方を向いて、ゆつくり切り出した。

    半之丞の豪奢を極きわめたのは精々せいぜい一月ひとつきか半月はんつきだったでしょう。何しろ背広は着て歩いていても、靴くつの出来上って来た時にはもうその代だいも払えなかったそうです。下しもの話もほんとうかどうか、それはわたしには保証出来ません。しかしわたしの髪を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁とうりょう、元値もとねに買っておくんなさい。これが誰にでも穿はける靴ならば、わたしもこんなことを言いたくはありません。が、棟梁、お前まえさんの靴は仁王様におうさまの草鞋わらじも同じなんだから」と頭を下さげて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言っていますから。

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